『誰がカラヴァッジョを殺したのか?』は英国で大人気の美術史研究家、アンドリュー・グレアム=ディクソン(Andrew Graham-Dixon)が、ミケランジェロ・メリジ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio, 1571-1610)の死の謎にせまるBBCドキュメンタリー。

 

 グレアム=ディクソンが最初に訪れるのは、カラヴァッジョ最期の場所と言われるトスカーナ州ポルト・エルコーレ(Porto Ercole, Tuscanny)の海岸。1610年7月のある日、39歳の画家は熱射病に倒れ、この砂浜のどこかで死を遂げたと言われている。だが今日にいたるまで葬儀の記録はなく、墓も記念碑もない。若くして名声を欲しいままにしていたカラヴァッジョにしては不自然である。彼は殺されたと推測する研究者も少なくない。

 実はこれをさかのぼること4年、ローマで大画家として活躍していたカラヴァッジョは殺人罪で死刑を宣告され、逃亡してしまう。殺人犯を仇討ちする場合、首は誰がどこで切り落としても合法であったため、カラヴァッジョはまだ統一されていないイタリア各国を放浪し、逃亡生活を続けた。それでも絵を描くことだけは止めなかった。いやむしろ、多くの問題作をものにしている。グレアム=ディクソンは、この壮絶な人生がカラバッジョの絵画に光と影を投影し、西洋美術史上もっとも深淵で胸に迫る精神性をそなえた作品群が生まれたのだと言う。

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 ドキュメンタリーは、400年前の殺人事件を再捜査するかたちで進行する。グレアム=ディクソンはまず、ポルト・エルコーレに住む建築家で、カラヴァッジョの研究をしているジョゼッペ・ラ・ファウチ(Giuseppe La Fauci)を訪ね、画家がそこで死亡したという部屋に案内してもらう。ラ・ファウチはカラヴァッジョはサルモネラ中毒か腸チフスで死亡し、市営花壇に埋葬されたと信じている。そして記念碑を作成した。観光にもいいだろうという話だが、史実がそうであったという確たる証拠はない。

 

 史実を他の角度から追究する必要がありそうだ。カラヴァッジョは1571年にミラノで生まれたが、1576年にペストが発生したためロンバルディア州カラヴァッジョに避難する。父親と祖父は1577年にペストで亡くなっている。1592年、21歳のカラヴァッジョはロンバルディア出身の無名な画家として、喧噪のローマにやって来た。そして多くの諍いに関与した。それら事件の詳細な記録が州公文書館に残っている。案内してくれたサンドロ・カラディーニはバチカンで「悪魔の代弁者」という役職を専門にする修道士で、カラヴァッジョ研究は趣味だそうだ。

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 まず、カラヴァッジョの風貌。がっちりタイプの若者で、年は20歳から25歳前後、貧弱な黒い髭にうっとうしい眉毛をはやし、瞳は黒、長い前髪が垂れている。黒い衣服をだらしなくまとい、ほころびた黒い靴下を履いている。つまり、高貴な身分である証しに黒をまとっているが、実は裕福でないので服はボロボロといったところ。ふるまいも高潔とは言いがたい。「彼なら知ってますよ。街頭で喧嘩する前に髭を剃りに来ましたから」、という床屋の証言も残っている。他にも公文書には1598年から1606年までの間にカラヴァッジョが街頭で起こした争いのエピソードが多数記録され、彼が侮辱されたら絶対にやり返す頑固な性格だったことがうかがえる。

 

 17世紀における画家の暴力的な生活について研究している学者、アレクサンドラ・ピエールは、カラヴァッジョの喧嘩っぱやさの原因は「自尊心」(honour)にあったという。当時のイタリアでは、自己や家族の名前は非常に重要なものだったので、もしそれを汚されたら復讐をしないかぎり生きていくことができなかった。だからもし誰かが「お前の絵は悪臭がする」などと言おうものなら、切り殺した。まことに物騒である。カラヴァッジョは暴力の時代を生きた乱暴な男だったのだ。

 

 画家にとっての敵対方法は、暴力だとは限らない。絵筆を使って相手を侮辱するというやり方もある。サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のチャラージ礼拝堂には、アンニバーレ・カラッチの『聖母被昇天』というよく知られた絵画がある。バロック様式の大作で、空中に浮遊する聖マリアや天使が観る者を霊的な高揚にいざなってくれる。ローマで絶頂期にあったカラヴァッジョはその同じ空間の隣に、『聖ペテロの磔刑』と『聖パウロの回心』という写実的な2作品を描いた。カラッチの描く世界への回答である。ここでカラバッジョが描いた馬は、カラッチの絵のほうに尻を向けている。結果としては、ローマ・カトリックはカラバッジョの趣意を疑い、カラッチのバロック様式を受け入れた。その後、改築とともに壁画が施されるサン・ピエトロ大聖堂にカラヴァッジョの姿はなかった。こうして若き才能の転落が始まる。

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1606年5月、カラヴァッジョはレヌチオ・トマソーニという男を決闘で殺してしまう。名目上の決闘の理由はテニス試合でのもめ事ということになっているが、実は愛人をめぐっての争いだった。カラヴァッジョは刀剣でトマソーニを去勢しようとし、誤って刺し殺した。今は自動車修理工場になっている決闘の跡地を訪ねながら、グレアム=ディクソンは考える。自画像や若者の肖像画などから同性愛者と推測されることの多いカラヴァッジョだが、実は両性愛者だったのだろう。そしてさらに厄介な事態が隠されていた。当時トマソーニの妻が産んだ女児の父親は、カラヴァッジョだった疑いがある。事件後、妻は生まれたばかりの娘の養育を拒絶し、即座に再婚している。父方の祖母、つまりトマソーニの母親も養育を拒絶したため、赤ん坊は孤児院送りになった。カラヴァッジョの娘だったのであれば説明がつく。つまりカラヴァッジョとトマソーニは、妻と娼婦という2人の女性をめぐって争っていたことになる。決闘の現場には家族の名誉をかけたトマソーニの兄弟たちも来ており、その後の追手となる。

 

 カラヴァッジョの題材のとらえ方と強烈に写実的な表現が、時のカトリック教会や社会との緊張関係を生み出し、それがまた画家をより極端で始末におえない行動に突き動かしていく。事件以降の彼の作品には、おのれの斬首場面を再現してみせるような残酷な描写が多い。グレアム=ディクソンは画家の軌跡を追い、その先々で何が起こったのかを探ろうとする。色々な説があり、文献もあるが、捏造文書と疑われるものもあって、なかなか真実は見えてこない。

 

 ドキュメンタリーの中でも少し触れられているが、カラヴァッジョは1608年、マルタで喧嘩に巻き込まれて再び拘留されている。ドキュメンタリーには出てこないマルタ大学のキート・シベラース教授(Kieth Sciberras)によると、『洗礼者ヨハネの斬首』を描き上げた直後の8月下旬に逮捕され、マルタ港にある古い要塞に幽閉されたが城壁をよじ登って脱出し、シチリア島に向かった。マルタでは画家としての活躍を認められてせっかく「マルタの騎士団」員になっていたのに、喧嘩っぱやいせいでそこからも追放されてしまったわけだ。敵は増える一方である。

 

 1610年、嘆願のためにローマに帰る予定だったカラヴァッジョは、シチリア島から出航してなぜかローマより北のポルト・エルコレに辿りつき、そこで客死した。殺したのはローマ法王パウルス5世とその甥で美術収集家のシピオーネ・ボルゲーゼという説、レヌチオ・トマソーニの一族という説、カラヴァッジョに顔を切り付けられたマルタ騎士団のロドモンテ・ロエロという説などがあるが、このドキュメンタリーが制作された2010年時点ではグレアム=ディクソンは3番目の説をとっている。まだ謎は多い。

 

地図で見るカラバッジョの逃亡劇
Italiano: Mappa dei viaggi di Caravaggio
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以下にカラヴァッジョの訪問地とそこでの代表作を紹介しよう。

ナポリ、ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア教会、『慈悲の七つの行ない』
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マルタ、聖ヨハネ大聖堂、『洗礼者ヨハネの斬首』

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シチリア島、メッシーナ州立美術館、『ラザロの復活』
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 現在このドキュメンタリーは放映されていないが、以下にアップロードしてくれているので全編ご覧になれる。BBC Four Who Killed Caravaggio? (Full Documentary) (2010、英語版、58分23秒)



ヨハンナ比較文化研究所制作動画:カラヴァッジョの絵画紹介 (Michelangelo Merisi da Caravaggio, ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ, 1571-1610)


(5分37秒、YouTubeより。画面右下の▢で大画面になります)



アンドリュー・グレアム=ディクソンの著書、『カラヴァッジョ:神聖で俗悪な人生』はこちら
Caravaggio: A Life Sacred And Profane
Graham-Dixon, Andrew
Penguin UK
2011-08-23