今、ウクライナ=ロシア間の戦争のひとつの原因になっているドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国は、2014年に独立を宣言したものの、西側諸国からは未だに承認されていない。ところが過去にはウクライナの近隣で、独立宣言が米英欧諸国から即座に承認された小国がいくつかある。1991年から1992年にかけて旧ユーゴスラビア領から独立した国々である。これら小国の独立は、1999年のNATO軍による空爆につながっていった。この過程を説明してくれるドキュメンタリー、『鎖の重さ』(2011、The Weight of Chains)を今回は紹介する。

1999年、NATOの爆撃を受けるユーゴスラビアのノヴィサド製油所Attribution-ShareAlike 3.0 Unported (CC BY-SA 3.0)
実はユーゴスラビアでは、歴史をちょっとさかのぼれば、サラエボ事件があったり枢軸国側にくっついたり、領土がバラバラに分割されたり、はたまたナチス・ドイツと聖職者ファシズムのウスタシャ(カトリック教会によるクロアチア人ファシスト組織)が何十万人ものセルビア人やユダヤ人やロマを虐殺したりとか、大変なことがたくさん起こっている。だがチトー率いるユーゴスラビア共産党のパルチザンが祖国を解放してからは、多民族が融和し、戦後は非同盟主義を貫いた。こうしてユーゴスラビアは、多民族国家としてうまくいっているめずらしい国になったのだ。セルビア人、クロアチア人、ボスニア人のムスリム、スロヴェニア人、マケドニア人、アルバニア人、ハンガリー人、その他の少数民族が共存し、過去にこだわらず仲良く暮らした。とにかく1980年5月4日にチトーが他界するまでは、理想的な発展を遂げた国だった。だがチトー後は経済が破綻し、国情は暗転する。
さて1984年、社会主義国で初の冬季オリンピックがサラエボで開催されて歓声が湧き上がっていたころ、ワシントンではある計画が密かに進行していた。ユーゴの共産主義政権を転覆させて自由市場経済を根づかせるプロジェクトだ。まず、NED(National Endowment for Democracy:全米民主主義基金)というCIA関連の非営利団体を送りこみ、反対政党やジャーナリストを始め、労働団体やIMF支持の経済学者、人権擁護組織にいたるまで賄賂をばら撒いた。経済学者の集まりであるG17もこの流れのなかで生まれたのだが、中心メンバーはIMFと世界銀行の構成員であった。1989年から1990年にかけてユーゴスラビアの経済が破綻した時、G17が主導して世界銀行の「破産プログラム」を適用させた。これによって自由市場拡大と企業の民営化がなされた。そして2002年にはG17がセルビア地方の政治政党になり、以来投票数の7%から11%を獲得し続けている。
G17はセルビアの財政経済省を支配し、そのネットワークを使ってIMFと世界銀行の政策をユーゴスラビア全域に行き渡らせた。実際にどのような仕組みになっているかいうと、
- 政府がすべての公共計画から撤退することを要求する。つまり食料補助・住宅助成金・無料交通・無料医療を廃止し、公共部門の出費を減らして賃金を下げ、雇用を減らす。言いかえると労働者を安く使う。
- 経済操作。新しい法律をつくって企業が倒産するようにする。経済学者のミッシェル・チョスドフスキーによると、世界銀行はこの仕組みを「引き金装置」と呼び、あえてユーゴの産業が倒産するように仕組んだそうだ。
- 経営は少数の起業家と強力な外資グループに特化する。彼らはタダ同然で会社を手に入れる。債権者は会社のすべてを45日以内に手に入れることができ、その会社は解散か民営化だ。
以上の方法で1989年1月から1990年9月までの間に、1100件以上の企業が消滅した。生活水準は18%低下し、失業率は20%を記録している。困り果てたアンテ・マルコヴィッチ(SFRJ最後の首相)が米国に助けをもとめたところ、ブッシュ大統領(父)はユーゴへの援助を一旦停止してしまい、「さらなる援助が欲しければ各構成共和国が連邦から独立せよ」と要求。1991年以降、各共和国内で投票が実施され、次々と独立を宣言していった。背景には200%の高いインフレ率のため、海外負債の支払いや原材料の購入が不能になったことなど、深刻な経済破綻があった。これらの経過をみると、ユーゴスラビアの分解は内部から起こったのではなく、外側から仕掛けられたものだったと言うことができる。
こうして分断された連邦各国の間では、民族、宗教、経済、支配をめぐって小競り合いが絶えなかった。独立の過程でも内戦が頻発したが、米国をはじめとする西側諸国は、スロヴェニアとクロアチアとボスニアの独立を承認した。これは分析も検討もない即座の決定という点できわめて異例であり、政治的なものだ。以降、当然の帰結として紛争は激化していった。
こういうときにメディアがやる事は決まっている。敵対心を煽る報道を、断定的な口調で流し続けるのだ。ジャーナリストも我先にと同調した。人々が強硬路線を訴える派手なプロパガンダになびいてしまいがちなことは、過去にもナチス・ドイツが証明している。街頭でインタビューに答えた女性志願兵は、「テレビで見て何が起こっているかに気が付いたの。セルビアは私たちが命をかけるに値するわ」と発言している。テレビを見て民間人が銃をとり始めた、ということだ。実際、一連の分離独立運動は正式な軍隊動員もないまま、志願兵の力で達成された。だが、人々の心が熱烈な民族主義に支配されてしまった場合、他民族迫害が常態化する。抗争を平和的に解決しようと奔走した警察署長、ジョゼフ・キーア(Josip Reihl-Kir)が1991年7月に殺害されて以降、「民族浄化」の戦争は本格化した。クロアチア防衛のためにと志願したものの、ドイツから持ち込まれた大量の武器でセルビア系住民を殺害する軍の実態を知って、去っていった者もいる。ボスニアのイスラム教徒もまた権利を求めて戦い、米国が武器を提供したり(注)、ムジャヒディンが参戦したりした。1992年には国連平和維持軍が介入したが、紛争は解決できなかった。
(注)当時、ペンタゴンが作成した『防衛計画の手引き』(1992年 Draft Defense Planning Guidance)によると、「米国主導の民主主義と開かれた経済を世界に広げること、さらに必要ならば米国は一方的に行動すること」が世界戦略として想定されている。現在ではこれは、冷戦後の世界を米国主導の一極システムにすることを目的とした初期ネオコンの地政学的枠組みだと解釈されている。
国中が荒廃し、西側諸国から制裁を受けるなか、ユーゴスラビア連邦共和国(以下、FRJ)の国内生産は大幅に低下した。150万人が栄養失調になり、労働力人口の60%が失業し、平均給与月額は500ドルから15ドルに急降下し、小売店の棚は空っぽになった。いっぽうで社会階級の上部にいる人たちは、闇市で大儲けをしていた。
このような惨状にあっても降参しないセルビア人を見て、あることを思いついた男がいる。彼はセルビアを利用すれば、ソビエト連邦の崩壊ですでに用済みとなった組織、NATOを再生することができると考えたのだ。セルビアを植民地化すれば、ロシアに手を伸ばす第一歩となるだろう。やり方はナチスの歴史から学べばよい。まず、ヒトラーがやったようにユーゴスラビアを無力化させる。そのためには、干渉せざるを得ないような事件をでっちあげなくてはならない...さて、ジョー・バイデンの登場である。
米国外務委員会で重要なポストにあったバイデンは次のように演説した。「我々は、セルビアの疑う余地のない拡大主義と侵略行為に直面している。これは最早1930年代にドイツやオーストリア、チェコスロバキアでおきたような市民戦争ではなく、ファシストの略奪がおこっているのだ」。こうしてセルビア人はファシストという汚名を着せられてしまった。さらにバイデンは、NATOの新しい役割の重要性を強調することも忘れなかった。1994年の『NATOの将来に関する上院議員委員会』における発言が記録に残っている。「...NATOのメンバーがその将来の役割を明確にできないならば、東側に勢力を拡大するべきか否かという問いは単なる学問的抽象論になる」。
こうしたワシントンの思惑を背景に、1995年8月4日、悪者に仕立て上げられたセルビア人を追い出す「嵐作戦」が、米国退役軍人の指導によって展開された。戦闘は84時間続き、セルビア人居住区はクロアチア軍に占領されて2000人が死亡、25万人が追放された。「人権保護」の美名のもとに執行された作戦だった。
次はボスニアだ。セルビア人がおこした「スレブレニツァの虐殺」を口実にNATOが介入する。この事件をどう見るかについては、歴史学者のセルジア・トリフコヴィッチ(Srđa Trifković)が「NATOの介入を導きだすためにクリントンが関与した」という異論を展開している。当時、現地ではセルビア人とムスリム系住民との武力抗争が頻発しており、双方の死者数に差はなかったとも言われている。だが、襲撃があった事実はセルビア側も否定できず、現場を管轄するスルプスカ共和国政府が公式に謝罪した。こうして米国は干渉へのお墨付きを獲得し、国連軍とNATO軍がボスニアに重装備で派遣され、セルビア攻撃の斬新な報道をするジャーナリストだけが注目された。その結果ボスニアは、セルビア人、クロアチア人ムスリム、その他の民族という3つの居住区に分割され、米国もNATOも「これで平和が達成された」と喜んだ。
では、実態はどうだったのか。ここにバーバリヤ(Vrhbarje)と呼ばれる村の実写フィルムがある。バーバリヤはセルビア人とムスリムがともに暮らしていた村だったが、国家の再分割で村がセルビアの領域になったため、ムスリムの人々は村を出ていかなくてはならなくなった。大型バスが待つなか、村中の住民が出てきてカメラマンに答える。「私たちはずっと仲良くやってきた。68年間も争うことなく、助け合ってきた友だちと別れるのは本当につらい。殺戮?そんなの一度もないですよ」。老人も子供も、母親たちも皆、「良いお隣さんだったのに」と、気持ちの整理がつかない様子である。そして強く抱き合って別れを告げるのだった。共同体が外部の力によって無理矢理解体されてゆく。
さらに1999年3月、NATOのバビエル・ソラナ事務総長は安保理の支持がないまま、ユーゴ空爆を開始した。多くの住民が爆撃で命を失い、学校も病院も工場も放送局も、橋や外国大使館までも攻撃を受けた。発電所は破壊され、給水ポンプは止まり、ベオグラードのパン屋はパンが焼けなかった。
ところがユーゴスラビアの住民は、非常に勇敢な行動に出た。街にくり出し、集まって歌をうたい、「私たちは国を愛する!」とそこらじゅうにプラカードを掲げ始めたのだ。「クリントンは慈悲も無い××だ、俺たちは勝つぞ!お前らが橋を壊したって3時間で直せる」。ジャーナリストのスコット・テイラーは回想する。「セルビアは5日ももたないだろうと思っていた。だから群衆が胸に標的の絵を染めぬいたTシャツを着て橋の上に集まり、抵抗の意思表示をやるなどとは夢にも思わなかったよ」。NATOの使命はコソボでの暴力を鎮圧してミロシェビッチを失脚させることにあったはずなのに、結果は完全に裏目に出たのだ。
胸に標的のシンボルを付けて抗議をするユーゴスラビアの人々(映画からの低解像度スクリーンショット)
セルビア人には抵抗運動の才能があるようだ。ニセの戦車を木で作り、絵具を塗ったうえで中に使い古しの電子レンジを入れておく。最新技術を誇るNATOは、せいぜい200ドルもかかっていないこの木製戦車を、一基数十万ドルはする砲弾で爆撃した。こうした市民の抵抗運動があったにもかかわらず、ミロシェビッチが降伏を受け入れさるをえなかったのは、そうしなければNATOが殲滅戦をやるだろうと察したからだ。
実はこの空爆の一年前、世界銀行は軍事介入とコソボ占領が及ぼす経済的影響について、綿密な分析を行なっていた。緊急事態のシナリオと一連のシミュレーションである。つまりワシントンやNATOは、ずいぶん前から「占領政策」を練っていたことになる。待てよ、コソボは占領じゃなくて解放されるはずじゃなかったっけ?などと考えてももう遅い。その後、インフラを完膚なきまでに破壊されたユーゴには世界の大資本が群がった。
まだまだ話は続くのだが、ドキュメンタリー『鎖の重さ』の内容紹介は、このへんで終わりにしておこう。なお、あまりに細かいので紹介しきれなかったが、マデレイン・オルブライトやスロボダン・ミロシェビッチ、コソボ解放軍、オサマ・ビン・ラデン、その他複数のジャーナリストや歴史学者が登場する。監督のボリス・マラグルスキー(Boris Malagurski)はセルビア系カナダ人で、セルビアの声を代弁するドキュメンタリーをたくさん制作している。
この作品はユーゴスラビア解体の全貌を把握するには必見のドキュメンタリーだが、ひとつ気に入らない点がある。全編にわたって間断なく、あらゆるクラシックの名曲が細切れに挿入されているところだ。インタビューやナレーションが中心の作品なのに、2時間ずっと音楽が鳴りっぱなしなのは疲れるので、もう少し控え目にやってもらいたかった。そしてドキュメンタリーにおいては、背景音楽による印象操作はほどほどにしたほうがよいと思う。
現在、この作品は以下のサイトで配信されていていつでも鑑賞できる。👇👇
https://vimeo.com/ondemand/weightofchains/328008564
監督自身による予告編こちら👇
NATOを題材にした他の映画としては、『NATOの秘密部隊』(2010、Nato’s Secret Armies: Operation GLADIO and Terrorism in Western Europe)という非常に深刻な内容のドキュメンタリーがある。英国のヒストリー・チャンネル制作なのだが、ちょっと入手しにくいようだ。そのかわり映画の元になった書籍が市販されている。













